彼女の福音
弐拾伍 ― 居酒屋にて 上 ―
からら、という音がして、店の扉が開く。
「へい、いらっしゃい……あ」
店の掃除をしていた勇が素っ頓狂な声を出したので、俺は眉をピクリと上げる。
「やいやい勇、てめぇ客人への挨拶の途中で止めるたあどういう了見だ。例え閻魔様が牛頭馬頭を引き連れて入ってきても、挨拶はきちんとしろ」
厨房から声をかける。
「へい、兄貴、そのぅ……」
「何だ、女々しい野郎だな。まさか最強と最凶が手ぇ繋いでタマ取りに来たわけでもあるまいに」
「へい兄貴、客人ですけど……」
その時、俺は勇の声に何かを感じて、厨房から顔を出した。
「こんばんは〜」
「お邪魔する」
最強と最凶が仲良く並んで立っていた。
「勇……」
俺は勇の襟を掴んでカウンターの向こうにしゃがみ込んだ。
「へい兄貴」
「店の奥にチャカとドスが隠してある。それ持って」
「持って……」
「持って、裏口からあいつを連れて逃げろ。ここぁ俺が食い止める」
「兄貴!」
「行けっつったら行け!!」
「あんたら何馬鹿やってるんだいっ!」
後ろから蹴り飛ばされた。
「全く、騒がしいと思ったら……」
「げ……」
「あ、姉貴」
俺達の前に勇の姉貴というか、俺の連れ合いというか、まぁとどのつまりすみれが立っていた。
「あ、姉貴、カチコミだっ!出入りだっ!」
「そうだ!お前は勇と一緒に『Folklore』に避難してろ!」
すみれは俺達を見て、ゆっくりと戸口に立っているだろう藤林の姐御と岡崎の姐御を見て、そしてまた俺達を見ると、長いため息をついた。
「馬鹿言ってるんじゃないよ。智代さんも杏さんも、あたしの客だよ」
『へ?』
俺と勇は顔を見合わせた。
「ごめんなさいね、うちの馬鹿共ったら、男の癖に早合点しちゃってさ……」
「気にしないでくれ。馬鹿の面倒を見る苦労なら、よくわかっているつもりだ」
「あたしもね、伊達に光坂開校以来の馬鹿と付き合ってないわよ」
談笑する女性陣。何だか任侠も仁義も形無しに感じられるような言われ様だった。
「じゃあこっちに上がりなさいよ。ほら、あんたたちもいつまでカウンターの下で縮こまってるつもりだい?挨拶の一つもしなさい」
「よ、ようこそ」
「お越しやす」
ぺこりと頭を下げたところが可笑しかったんだろうか、二人はくすりと笑い、会釈をするとすみれの後について二階に上がって行った。
「しかしどういうこった」
二階から時々聞こえる笑い声を耳にしながら、俺はフライパンを握った。
「兄貴、追加です。レバー刺三本」
「おうよ」
夕方になると、俺の店「てうち」も少しずつ忙しくなってくる。今日は週日なので、佐々木の兄弟や田嶋の兄弟が仲間を引き連れてやってくる、ということはないが、それでもぼちぼちと客は来る。
「おい勇、あれぁ、一体全体何が起きてるんだ」
「何、と言われても……」
「あの最強だぞ?そしてそんな奴とタメを張れる杏の姉御だぞ?その二人が、うちのすみれに何のようだ」
「姉貴にそんな最○フラグなんて立ってやしなかったんですけどね」
「当たり前だ。俺ぁ、そんな普通なあいつに惚れたんだからな」
「いやぁ、俺に惚気ないでくださいよ」
うーん、と唸って首を鳴らした。
「よし勇、お前見に行って来い」
「え?お、俺ですかい?」
「ああ、お前だ。任侠ってのはな、上が白だといやぁ、カラスだって白いんだよ」
「ずりぃ!俺ぁまだ死にたくねえよ、兄貴」
「四の五の言ってねえで見に行って来い。ほら、前にすみれのアイス食っちまったの、フォローしてやっただろ」
「そういうことでやしたら、兄貴だって先週姉貴に黙って高い酒、一人で飲んじまったじゃないですかい。あの口止め料、ツケでしたっけ」
「口のへらねえ奴だな。こうなったらお前が先月間違って燃えるゴミと燃えないゴミを混ぜちまったのをばらすぞ?」
「何やってんだいあんた達はっ!!」
俺の真横で手榴弾が爆発したようだった。気づけばすみれが腰に手を置いて仁王立ちをしていた。俺達はまぁ腰を抜かしてあわわ、とそんなおっそろしいすみれを見上げていた。
「ちょいとお客に飲み物でも出そうかいと思って来て見りゃあ……全く、あきれて物も言えないよ」
「でもぉ……そのぉ……」
「あんた、前から男は黙って己の道を歩くだの何だのかっこいい事言ってたんじゃないのかい」
「あぁ……それはぁ……」
「あ、姉貴、それでもちょいとばかしは事情を話してもらったって……」
手を上げて聞く勇が、その時の俺には危険に立ち向かう勇者のように見えた。
「女の話に、男が首突っ込んでるんじゃないよ」
ぴしゃり、とすみれの返答。勇者死滅。
「あ、そうそう、言っとくけどね、あの二人のいい人が来たり、何か聞いてきても、絶対に知らぬ存ぜぬで通すんだよ」
「はぁ?そいつぁどういうことだ?」
するとすみれはキッと俺達をにらんだ。うお、こええ……
「だから女の話に口出してるんじゃないよっ!覗きに来ようもんならただじゃおかないからねっ!!」
そういうと、すみれは冷蔵庫からジュースを出してコップに注ぐと、ぷんぷんしながら二階にあがっていった。
「本当にうちの姉貴、普通なんかなぁ……」
勇の呟きがとてももっともに聞こえた。下手をしたら、佐々木の兄弟ですらうちのすみれには勝てねえかも知れねえ。
「しっかし兄貴」
店がとりあえず落ち着いたところで、勇が聞いてきた。
「岡崎の姉さんのいい人って言ったら、あの、岡崎さんっすよね」
「あの岡崎の大将だ」
昔「あの坂上智代と付き合える奴なんて、宮沢和人以外に存在するのか」という馬鹿な話をしたことがある。その時は結構盛り上がって「人間か、そいつ?」だの「そもそもあの坂上智代に恋愛感情なんてあるのか」だのという馬鹿な意見も出たが、蓋を開けてみればとんでもない奴だったりした。
外見はまぁどこにでもいそうな優男なんだが、バックにある噂は半端じゃなかった。
一週間連続でタイマンを張って、ことごとく喧嘩の猛者共を殴り倒してきた、不死身の男。
俺達は意識がなかったけど、佐々木の兄弟とも引けを取らなかったタフな野郎。
あの坂上智代すらもメロメロな侠気の塊。
「岡崎の大将だったら、最強のが連れ合いでも不満はねえだろ」
「へい、ねえっす。するてえと、やっぱり吊り合うんすかね、男と女ってのは」
「まぁな。ま、吊り合ってるかどうかなんて、本人達の決めることだろ」
「へいごもっとも……じゃあ」
不意に怖い顔をする勇。
「あの藤林の姐御の連れ合いって、一体何者っすかね」
藤林の姐御。
実際に張り合った奴はいないが、噂は少しばかり聞いている。岡崎の姐御を最強とすると、その二つ名は最凶。蹴りの切れ味は最強のほどではないが、それでも十分に破壊力がある。そして最強が接近戦を主とするのに対して、藤林の姐御は書物を弾丸として、一撃必殺の狙撃を行う。正々堂々?素手のみの戦い?そんなの知ったこっちゃないわ、勝ちゃあいいのよ、勝ちゃあ。
おまけにバイクのテクも半端じゃないらしく、田嶋の兄弟のハーレーとスクーターで勝負をしたというほどだった。これは若い衆が話しているのを聞いたんじゃなくて、前に一緒に走った時に田嶋の兄弟が「須藤、実は……」と青い顔で話したから、多分実話だ。つまりまぁ勝負師としての肝も据わっているわけで、本人は知る由もないが若い衆の中には彼女に憧れている奴もいるようだった。
そんな姐御にぴったりの男というと……
「ううむ……」
「ね?悩みやすっしょ」
「そうさな……目的のためなら手段をえらばねぇ奴とか、有無を言わさずに強え奴とか……」
「そんな奴、いるんだったら俺らの耳にも入るはずだけどなぁ……」
「そもそも、あの姐御は何をやってるんだ?とてもじゃねえけど堅気たあ思えねぇ」
「しかし裏の仕事に手を染めているようには見えやせんですけどね」
「そういう話は、ついぞ聞いたこともねえな……案外真っ当な仕事かも知れねえぞ」
「岡崎の姐さんは確か経済畑の会社でお勤めでしたよね……サラリーウーマンとか?」
「ううむ、バイクの教習官かも知れねえ」
「まさか先生?」
勇の発言に、俺は吹き出してしまった。
「おいおい、藤林の姐御が教師だと?何を教えるんだい?」
「いやぁ、意外性で言ったら例えば幼稚園で子供に囲まれているとか……ないっすよね」
「ねえな、そりゃあ……はっはっは、傑作じゃねえか」
その時、がらら、と店の玄関が開いた。
「へい、いらっしゃいませ……あ」
店の方に顔を覗かせた勇が、また言葉に詰まる。
「おい、勇。いい加減挨拶の一つぐらい覚えたらどうだ?全く、まさか最強に匹敵する奴がやってくるわけでもあるめえに」
「あ、兄貴」
「何でえ、女々しい野郎だな。今度は何だってんだい」
厨房から顔を覗かせて、俺は声に詰まった。
「あれ?岡崎、ここって……」
「へぇ、あんたの店だったのか」
意外だな、と言わんばかりに岡崎の大将が俺を見た。